- 2021年12月14日
- 私が石渡商店で働き始めたころのエピソード
◆私、3代目の石渡久師(ひさし)は、初代と2代目の背中を見て幼少期を過ごしました。
小さい頃は、毎日沢山のフカヒレが家の前に干してありました。サメの加工工場で働くおばちゃん、おじさんたちによく声をかけてもらったものです。当時の工場の脇には川が流れていました。当時、幼稚園児だった私は、乾かしていたフカヒレを川に向かってブーメランのように投げて、すごく怒られたことを今でも覚えております(笑)
学生当時は小学校から高校まで、短距離の選手として陸上競技に打ち込み、高校卒業後は新潟の妙高を拠点に、競技としてスノーボードにのめり込んでいました。
そんな私が、生まれ育った気仙沼の家業である「石渡商店」に戻ってきたのは、高校から地元を離れ、「外の世界から見た気仙沼の魅力を知ったからでした。新幹線に乗るまで1時間、仙台まで2時間と気仙沼はいわゆる田舎です。しかし都会では味わえない、数々の美味しい海産物や里山の恵み、リアス式海岸が織り成す綺麗な景観や豊かな山林など、素晴らしい資源があります。東北の台所、気仙沼漁港に水揚げされるマグロやメカジキ、サメなどの大型種には、他にはない圧倒的な存在感を感じたことを今でも鮮明に覚えています。
「フカヒレ」の仕事はとても特殊です。仕入れ、下処理、加工、調味、販売。どの工程もサメの種類によって異なるため、高い専門性が求められます。サメに関する仕事のすべてを知っている人は、日本中でみても数少ないのが現状です。
サメは世界中で捕れますので、仕事の舞台に国境はありません。先代たちが積極的に行っていたように、この小さな街から世界中の人とコミュニケーションして繋がれるのも、この仕事の魅力の一つです。
特殊性高いフカヒレの仕事を覚えるためには長い年月がかかります。その分、習得できれば希少性や優位性がとても高い、貴重な技術となります。
そんな理由で私は24歳でこの世界に入り「サメを極めたい」と誓ったのです。
震災を30歳で経験してから10年が経ち、私は40歳となりましたが、サメの世界はとても奥深くまだまだ勉強は続きます。2代目社長(父)が2021年に他界し、私が代表として石渡商店を牽引していくことになりました。次の世代、また次の世代とこの地方における「サメ文化」の継承と先代たちが築いてきた技術や信頼、ネットワークを時代に合わせ変化させていくことが私の役目だと思っております。
昔から気仙沼では、サメに関わる全ての部位に価値を与えてきました。肉ははんぺんやちくわ、骨や皮は健康食品、その他飼料や肥料などほぼ捨てることなく活用しています。
石渡商店では今まで「フカヒレ」をメインに扱ってまいりましたが、ここ最近ではサメの全部位の有効活用にも力を入れています。地元気仙沼で活動する責任を原動力に換え、資源や環境に配慮しながら社会と事業の持続性を高めて、地域社会への還元ができる仕事を目指していきます。